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『街場の教育論』(内田 樹) [2011年の読書]

2011年の(n+2)冊目

街場の教育論

街場の教育論

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2008/11/15
  • メディア: 単行本


 内田樹による教育論。
 教育論というタイトルだけど、その「教育」の意味する範囲は広い。
 中心は学校教育だが、人間的「学び」について論じているので、話題はあちこちにジャンプする。
 「学び」とはどういうことか、学びによって「成熟する」とはどういうことか。
 現状はどういう状態であり、どういう状態でないのか、どうあるべきなのか。
 なにが存在していて、なにが欠けているのか。

 以下、例によって、気になった部分を抜粋。

 「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのです。(p.40)

 ブレークスルーというのは、喩えて言えば、日本地図だけしか持っていなくて、その地図上の自分の街の場所しか知らなかった人が、突然、東アジアの地図を差し出されて、「君の街はここだよ」と指し示されたような気分のものです。(p.58)

 教養教育というのは「自分が何をやっているのかわからない」という覚知に基づいて知性を使うやり方のことです。いささかわかりにくい表現を使えば「自分がどうふるまったらよいのかわからないときに、なお適切にふるまうやり方」を身につける訓練のことです。(p.98)

 日本の教育プログラムにいちばん欠けているのは、この「他者とコラボレーション」する能力の涵養だと思います。今の日本の教育の問題というのはもしかすると、ぜんぶがこの一つの点に集約されるのかもしれません。(p.105)

 「相対的に」というところが味噌です。
 「今ここでの競争に勝つ」という点に限れば、自分の学力を上げることと、競争相手の学力を下げることは、結果的には同じだからです。そして、ほとんどの子どもたちは「自分の学力を上げる」努力と同じだけの努力を「競争相手の子どもたちの学力を下げる」ことに投じます。もちろんおおかたは無意識的に。(p.106)

 理論的には、ありえないことですね。
 でも、実践的には、私たちはそういう「ありえないこと」を日常的に行っている。おそらく、何度かの小さな失敗のあと、判断する力が身についたのでしょう。どうして自分がそれをできるのか自分では説明できないけれど、できることがあります。(p.123)

 私は「よい教師」を育てるという基本の考え方そのものが間違っていたのだろうと思います。「よい教師」が「正しい教育法」で教育すれば、子どもたちはどんどん成熟するという考え方が、人間についての理解として浅すぎる。私はそう思います。(p.130)

 反抗的な子どもほどそうですね。「大人Aはこう言っている。大人Bはこう言っている。大人Cはこう言っている。世の中はいろいろである」というような達観を述べる不良少年はおりません。不良なら必ず「AもBもCも、大人の言うことなんか、みんな同じだよ」と言います。絶対言います。それが言えるように、A、B、Cが共通して自分に向けて発信しているメッセージを何とかして聴き出そうとする。そして、もちろん聴き出すことができる。というのは、大人が子どもに向けて発信するメッセージは結局は一つしかないからです。
 成熟しろ。
 これがすべてです。
 そして、成熟というのは、「表層的には違うもののように聞こえるメッセージが実は同一であることが検出されるレベルを探り当てること」、これに尽くされるのです。(p.132)

 探り当てないうちに、「あんたが何を言いたいか、全部わかったよ」と言えば、それでゲームは「終わり」です。知らないことを「知っている」と言って、それ以上の努力を止めたとき、その人の成熟は終わります。(p.134)

 学びにおいて、人を操作的に学びに巻き込む主体は存在しない。このことを最初にはっきりさせておきましょう。(p.141)

 「述べて作らず、信じて古を好む」というのは『論語』の「述而篇」にある言葉です。
 「述べて作らず」とは、「私が教えていることは、私のオリジナルではありません。私は先賢の教えを祖述しているにすぎません」という意味です。「今から私が話すのは、私が先人から聞いた話です」というのが、教える者がその教えの冒頭に置かなければならない言葉である。孔子はそう教えています。(pp.143-144)

 「かつて一度も存在したことがないもの」を本気で実現したいと望んでいる人は必ず、「それはかつて一度存在したが、私たちが堕落したせいで消失したのである」という話型を採用する。かならず採用します。制度の改革を求める人でこのロジックを用いない人はいません。人間のパフォーマンスというのは、課題が「一度はできたこと」であるか「一度もできなかったこと」であるかによって、大きく変わるからです。(p.147)

 必要なのは「あるべき社会」についての「正しい情報」ではありません(あるべき社会についてのほんとうに「正しい情報」というのは、「そんなものはかつて存在したことがないし、これからも存在しない」です)。そうではなくて、「あるべき社会」を構築「する気」に私たちがなるかどうか、です。「正しい情報」を提供することが、人間が世の中を少しでも住みよくする努力に「水を差す」ことになるならば、「正しい情報」なんか豚に食わせろ。少なくとも、私はそう考えます。(p.151)

 「フロイトに還れ」とラカンは言い続けました。すべてはそこにすでに書いてある。私はそれを祖述しているだけである、と。(・・・中略・・・)
 私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。(・・・中略・・・)
 「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の「限界」をかたちづくります。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をすいぶん高くに設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。(・・・中略・・・)
 ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価の上に置くということです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。(・・・中略・・・)
 やり過ぎたら「先生」が「止めどき」を教えてくれる。実際には、人任せの「止めどき」などというものはないのです。でも、それが「ある」と想定すると、人間のパフォーマンスは爆発的に向上する。そういうものなのです。(pp.154-156)

 何度も言っていることですけれど、人間は自分が学びたいことしか学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。(p.158)

 気がついたら、すでにゲームは始まっており、自分はそのゲームにプレイヤーとして参加させられていた。ゲームのルールがどういうものか、自分の役割は何かについて、予備的な説明はなにもない。でも、ゲームはおかまいなしに、どんどん進行する。どうプレイしていいかわからないけれど、適切なプレイをしなければならない。不適切なプレイをしたら何が起こるか。どういう「罰」があるのか。それさえ教えられていない。とりあえず適切にプレイしている限りゲームは続く。
 この状況をたいへん文学的に記述した文章があります。(として、村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上)』。151頁を紹介している) (p.159-160)

 恥ずかしながら、私自身もその当時はこのロジックを受け容れていました。子どもが荒れるのは、管理教育のせいである、と。わかりやすい喩えですからね。風船だって押しつぶせば爆発する。それと同じだ、と。知的負荷の少ない説明に人は飛びつきます。(p.166)

 「問題はきわめて複雑であり、困難である。どこから手を着けていいか、よくわからないぐらい複雑かつ困難である」。そういう現状認識をまず共有しないと話が始まらない。「これは簡単な話なんだ」と言って、できるはずのない空想的な「ソリューション」を提示すると、そこで思考が停止してしまう。「簡単な話」についての「簡単なソリューション」があるという信憑の上に、管理教育批判があり、「ゆとり教育」の導入があり、学力向上のための管理強化や、校長や教頭に権限を集中するトップダウン構想がある。(p.170)

 どなたにも悪意はないのです。純然たる善意によって事態をさらに悪化させている。全員が善意で「教育をよくしたい」と望んでいるにもかかわらず、さっぱり事態は好転しない。これをまず認めるところから始めなければならないと私は思います。(p.173)

 現状は難破船に乗り合わせたようなものです。船はもう座礁している。「船が座礁したのは誰の責任だ?」などと気色ばんでも始まらない。誰が舵輪を握っていようと、誰がウォッチしていようと、それを摘発しても問題は少しも解決しないからです。犯人を特定して「難破した責任はおまえにある。だから、おまえひとりで何とかしろ。私は難破したときに寝ていたから、引き続き寝ている」と言う権利は誰にもない。言ってもいいけれど、それから後、誰からも相手にされないでしょう。問題はすでに起きてしまった。その船に乗り合わせた以上は、この事態について自分には直接の責任がないと思っても、この危機を脱出するためには他の全員と協力しなければならない。
 「私には責任がないから寝ている。責任があるものだけでなんとかしろ」ということが言えるのは、実は危機感がないからです。このまま座礁していれば、全員死ぬことになると思っていない。誰かがなんとかしてくれるだろうと思っている。他責的な人間というのは、実は無根拠に楽観的な人間でもあるのです。自分がいなくても何とかなると思っている。でも、「自分がいなくても何とかなる」というのは、危機の評価が低いということと同時に、自分が貢献できることについても、きわめて低い評価をしているということです。「自分なんかいても、何の役にも立たない」と思っている(ただし、これは意識化されてはいません)。被害評価の低さ(無根拠な楽観)と、自己卑下(無根拠な悲観)、この二つが「犯人捜し」に熱中する他責的な人々の特徴なのです。(p.175-176)

 この人の考え方はよく理解できます。「簡単なソリューション」がある。それを採用すれば問題は効率的に解決する。自分はそのソリューションを知っている。彼はたぶんそう思っていたのでしょう。でも、それに耳を貸す人がいなかった。どうしてでしょう。それは実際に現場で石を拾っている人たちには、「そんな簡単な話じゃないんんだよ」ということが実感としてわかっていたからです。(p.178)

 100万円の原資がある。これをどう使うかの最適解を求めて連日議論しているうちに、会議の弁当代で100万円使いきってしまった。これが教育の現状です。(p.181)

 誤解されやすい比喩ですけれど、「組織の歯車」になることによってはじめて「組織を動かす」歯車装置の成り立ちがわかる。(p.197)

 「どうして人は労働するのか」という根源的な問いがクリアーされていない。だから、4月に入社して、ちょっとした「つまずき」で、「私はどうして『こんなこと』をしていなくちゃいけないのか?」と自問したときに、その答えが自分の中にはないということに気づいてびっくりしてしまう。(p.204)

 ですから、真にビジネスライクなビジネスマンは、「個人的能力はそれほど高くないが、周りの人のパフォーマンスを上げることができる」タイプの人を、個人能力は高いが、協調性に欠けるタイプの人よりも優先的に採用します。これは受験勉強ではありえないことですね。(p.211)

 むしろ、みんなが気分よく話せるように「ファシリテイト」するタイプの人間が高く評価される(こういうとすぐ間違える人がいますけれど、「ファシリテイト」するというのは「仕切る」とは違いますよ。むしろ「受ける」です。誰も理解できないジョークにもにっこり笑ってあげるとか、そういうことです)。(p.213)

 文字と読み方だけ知っていて、意味がわからない言葉というのは、磁石が鉄粉を引き付けるように、「その空虚を充填する意味」を引き寄せます。欠落感をいつも感じているからこそ、その欠落感を埋める方向に感覚が深化してゆく。(p.243)

 「お前の言いたいことはわかった」というのは、日常生活で私たちが熟知している通り、コミュニケーションを打ち切るときの言葉です。「だから、黙れ」「だから、消えろ」というのが「よくわかった」という宣言の遂行的な意味です。(p.267)

 メンターは他の場合同様、私たち自身が自分で探すしかない。誰かが「この人についていけば大丈夫」というような身元保証をしてくれるわけではない。でも、霊的な成熟を真剣に求めている人であれば、自分を導いてくれる人にいつかは必ず出会うはずです。生きる上での先達をほんとうに求めていれば必ず出会えると思います。ただ、その人は「私はあなたの霊的なメンターです」と名乗って現れるわけではありません。(p.273-274)

 弟子に欠けているのは「自分に何が欠けているのかを言い表す言語そのもの」だからです。私は自分が未熟であることはわかった。けれども、どういうふうに未熟であって、どうすれば未熟でなくなるのか、その道筋はわからない。それが本態的に「未熟である」ということです。
 でも、メンターの前では、自分が未熟であると認めることが少しも不安ではない。メンターとはまさに「その人の前では自分が未熟であると認めることが少しも不安ではない」人のことだからです。(p.275)
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