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『なぜこんなに生きにくいのか』(南 直哉) [2011年の読書]

2011年の(n+3)冊目

なぜこんなに生きにくいのか

なぜこんなに生きにくいのか



 陸上選手の為末が挙げていたので、興味をひかれて読んだ。
 著者の南直哉(みなみ じきさい)は曹洞宗の禅僧。
 生きる意味だとか人間関係の苦しさだとか悩ましいトピックについて、禅の考え方で語っている。
寺の住職さんでもあり、喩えを交えながらの話はわかりやすい。

 以下、気になった部分を抜粋。

 禅僧に個性的な人間が多いと言われるのは、ガチガチの規則に縛られる修行道場の中でやってきたからでしょう。同じことをやっているのに、なぜこうも違うのか、ということになるのです。逆に、いちばん没個性になりやすいのは、何でも好きにしていい、という規則のゆるい集団です。(p.39)

 反抗期の子供が一度は口にする、「生まれたくて生まれたわけじゃない!」「生んでくれなんて頼んだ覚えはない!」という、まさにその言葉どおりなのであって、私たちは人生を「自己決定」で始めたわけではありません。自己という存在それ自体には、もともと根拠がない。だからつらいわけで、それで空いている穴を「意味」とか「価値」でふさごうとするのです。(p.44-45)

 ここは一つ、発想を変えてはどうかと思うのです。まず、「本当の自分」などどうでもいいと思うこと。「自分はわからなくて当たり前だ」と決めてしまったほうが、ずっと楽に生きられるはずです。それより、いったい自分は何を大切にして生きたいのか、誰がいちばん大切な人なのかを考えるのです。
 つまり、「問い」の仕方を変えるのです。(p.93)

 自ら命を絶つ人というのは、けっして「死にたい」から自殺するのではなく、「生きたくない」から自殺するのだと思います。つまり生きていることに不満があり、生きるのが嫌になっているだけであって、死にたいわけではない。むしろ本当は「よりよく生きたい」。したがって、よりましな生があるのだと思えたなら死なないのではないかと思うのです。(p.106)

 自分の問題を正確に設定できない人というのは、自分が何かいけない状態にあるとは思っているのですが、いったい何が問題になっているかが見えていない。それが、いちばん切なく、苦しいのだろうと思います。
 私は「問い」と「問題」を区別して考えています。「問い」というのはアプローチしようがないような、正体不明のわからなさです。それに対して「問題」は、ある「問い」が言語によって明確化され、アプローチできる状態になったことを指します。
 (・・・中略・・・)
 人は答えを出すことを第一に求めがちですが、答えを出すことを急げば、問題は安直に構成されます。答えは、むしろないと思ったほうがいい。簡単に答えを欲するから、簡単に問題を構成してしまうのです。たとえば何かの事件が起きたとき、テレビのコメンテーターの発言を聞いていると、実に典型的な例だと思います。(p.112-114)

 私が考える希望というのは、漠然と”未来”を夢見ることではなく、簡単に言えば、何ものかにまだ見捨てられていない、という感じがあることだと思います。誰かわかってくれる人がどこかにいるだろう、というのが、その革新的な意味だろうと思うのです。(p.126)

 受け止めないかぎり、業というのは成立しません。「わからない」というのは、切ないことです。それでも引き受けざるを得ないと決める。どんな苦境にあっても、そうせざるを得ないというところまで追い込まれたとしても、土壇場でそうするかしないかは、その人間が選べるということです。(p.129)

 どんなに虐待されていても、子は親をかばおうとします。見放されることが怖い、見放さないでほしいと願うわkです。なぜそんなことを考えるのか。それは結局、自分が生きていることが確かでないという感覚があるからだと思うのです。実際、親子関係が不調な人の中には、親に対する信頼はもちろん、自分自身に対する信頼に根本的な傷がついている場合があまりに多いと感じるのです。(p.142)

 幼少時の体験が、のちのちの人生に困難をもたらすことはできれば避けられなければならないことです。しかし、失われたものがあれば、切ないことですが、「それでも生きていくにはどうすればいいか」を考えていくしかないでしょう。(p.145)

 誰でも、肯定されたいという気持ちをもっています。子供が生まれたときに全面的な肯定をあたえられることはもちろん、大人になってなお、自分のあり方を誰かに肯定してほしいと思い続けているのです。それを否定されたら、どれだけ切ないか。
 ところが、この問題の根が深いのは、ある一人の人間から永遠に肯定されるということはあり得ないのだという厳然たる事実があることです。自分が他者と関係を作る中で、肯定し、肯定される関係を常に努力して作らないかぎり、たとえ親子であろうとも、一人の人間から全面的な肯定を一方的に受けるというのは、神ならぬ人間のできることではありません。なぜなら、その肯定をする人間の側も、自分を誰かに肯定されたいと願う存在だからです。完全な自己肯定で生きている人間は誰もいないのです。(p.151)

 自前で人間関係を作り出していけるようにすること、私は親が子になすべきことは、これ以上でもこれ以下でもないと思います。(p.155)

 ある関係の不調というのは、外側との関係で直していくしかないのです。というのは、ある関係がそれとして落ち着いているのは、その外側にそれを規定する枠組みがあるからです。内部関係を決める外側のフレームが変わらないかぎり、内部関係は変りようがないのです。(p.161-162)

 もし当事者どうしの関係しかなかったら、常に実力で決着をつけなければいけないでしょう。それはけっして関係を安定させません。
 要するに、安定した人間関係を社会と呼ぶのであれば、それは第三者がいて、ある関係が正当か不当かを判断し、その人の判断に従うというルールがなければ、成り立たないということです。あるいは第三者がいて、どちらかの味方をする。つまり一対一の戦いだったら安定しないが、二対一だったら常に勝つというパワーゲームがあって秩序が安定する場合もあるかもしれません。いずれにせよ、三人以上いないと、少なくとも関係として安定はしにくいのです。(p.164-165)

 ところで、仏様ならぬ人間の世の中で慈悲があるとすれば、それは「許す」という行為だと思います。人を許すというのはとても難しいことです。なぜ難しいかというと、人を許す前に、自分を許さなければいけないからです。許す以前に、まず許そうとする自分を許す。(p.166)

 だとすれば、その前提として、自分には他者のことは「わからない」、ということがわかっていないといけないでしょう。わからないからこそ、想像するのです。わからないから無視するのではなく、わからないから、わかろうとするのです。全部わかることはできなくても、何かはわかるだろう、わかりたい、と思うこと。ここに「慈悲」の核心があるでしょう。
 つまり、「あなたのことは私が全部わかっている」という言い方をする人は、愛情はあるかもしれませんが、慈悲のある人ではありません。それは一つの支配です。(p.174)

 しかも本人は自分を自惚れているとは思わない。とても価値あるものを信じて、それに従って生きていると思いこんでしまうのです。ナルシシズムが往々にしてやっかいなのは、「信念」としてあらわれるからです。
 ある「信念」に一度取り付いてしまうと、その導く先が、自分の生活や人生にとって負担になったとしても、なかなか捨てられないものです。
 なぜ「人」でなく「法」を信じることが大事かというと、それを考えることを通して、自分を客観的に見る目が養われるからです。そもそも、何かの教えに触れるというのは、その教えを通して自分が客観視できるようにすることに意味があるのであって、「俺が絶対だ」と言うような教祖なり指導者なりのもとでは、それが遮断されてしまうのです。考えることもしだいに放棄することになります。そのほうが実際、楽だからです。(p.182-183)

 人間が怒ることができるのは、「自分が正しい」と信じているか、少なくとも「間違っていない」と思っているときでしょう。つまり、その時点でなんらかの「信念」がある人にしか、怒ることはできません。(p.186)

 よく「おまえのために言っているんだ!」と子に対して怒鳴る親がいますが、子の何を思って親が怒っているかを理解でき、それは確かに自分のためだと子が納得できなければ、そもそも話になりません。である以上、怒りの目的にとって、怒りの感情は邪魔なのです。これが、怒りということの難しいところでしょう。
 禅道場で後輩を指導してきた経験上、強い怒りが生じたときの対処法として、私が有効だと思うことが三つあります。
 一つは、体の姿勢を変えることです。(・・・)椅子に腰を下ろすか、できれば床か地面に尻をつけて座り込んでしまうのです。(・・・)感情そのものをどうにかしようと思っても、たいていはうまくいきません。むしろ行動様式を変えるほうが、はるかに有効なのです。
 二つ目は、一度は許すと最初から決めてしまうことです。理由と事情は一切問わず、自分の責任でフォローできる範囲内での失敗や不始末ならば、それが一回目であるかぎり、すべて許してしまうのです。(・・・)
 三つ目は、自分の怒りの理由が、自分と相手の間だけでなく、利害関係のない第三者が聞いても納得するものかどうか、考えてみることです。要は、「それは怒られるほうが悪いよ」と、聞いていた人が言うかどうかです。(・・・) (p.189-191)

 特に、テレビなどから一方的に受けるだけの情報は、ほとんどが「知らなくて大丈夫」なものです。テレビを否定するわけではありません。実際、私も小さいころはテレビっ子でした。ただ、マスメディアというものが根本的に情報の取引をベースにした媒体である以上、売り買いの枠組みの中ですべてが情報になっていることは心得るべきでしょう。
 一方、知らなければならないこと、知っておくべきことを見つけることは重要です。それが「自立」を意味するからです。自立には知恵が、教養がいるのです。(p.197)

 本当に必要な連絡なら、私にしても相手にしても、必ずなんらかの方法で伝えるはずだからです。だから、便利であるにしても、ぜひ使わなければいけない筋合いはないと思うわけです。便利だけれど必要ない、ということです。
 考えとしてはそれでいいのですが、現実に問題なのは、便利なものが便利であるがゆえに、普及すると、社会はみんながそれを持っていることを前提に動き出すということです。そうなると今度は、単に「便利」だったものが、「必要」なものに変わってしまうのです。(p.201)

 同じ苦労をした仲間、利害や取引を超えた人間関係をもてるかどうかで、生の強度ができるのではないかとおもうのです。(p.212)

 「自分を変えたい」と言って坐禅に来る人がいます。しかし、こういう人はほぼ百パーセント、変わることはありません。変えたい変えたいと考えているだけで、けっして変わることはないのです。
 私には、確信があります。人間のあり方というのは、いくら頭の中で考えをめぐらしたところで、絶対に変わることはありません。
 ある人のあり方を徹底的に変えるのは、生活スタイルです。一生懸命本を読んで学んだつもりになっても、あるいは変わりたいと願っても、生活スタイルを切り換えないかぎり、人間のあり方は切り換えられないのです。(p.218)
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